海なんて大嫌い。ここにいる人もみんな嫌い。特にカップル。イチャイチャしてるカップル。
 何故そんなに顔を近づけてお話をする必要があるの? 声が小さいの? 耳が遠いの?
 どうして手を握り合うことを選ぶの? 片方に食べさせてもらうよりも自分で食べたほうが早いでしょ?
 ――今この世から私の前で幸せそうな顔をする人なんていなくなってしまえばいいのに!


 ――季節は夏である。夏と言えばバカンス。バカンスと言えば恋人とのイベント。
 高級リゾート地であるセイガイハシティにはここぞとばかりにカップル、カップル、夫婦、アンドカップル。おひとり様でこの時期にこの場所を訪れる奇特者は、ただ一人のように思われた。

「(いや……いいや! きっと私の他にもいるはず。ただ今は見えないだけで、カップル以外の人間も、きっと!)」

 ぎりぎりと歯を食いしばりながらどく状態のようにメンタルにダメージを受けながらは一縷の望みに縋り付いた。
 ああ、私のポケモンセンターは、いずこ。
 この時期、このタイミング。恋人と別れ、一人リゾート地へ降り立った女は暑い日差しを受けながら、数か月前から予約をしていたログハウスを探した。



 シラフでなんかやってられるか。
 海で泳いでも一人。砂浜で城を作っても一人。バトルをしても一人。ディナーも一人。咳をしても一人。

「ふ、ふふふふ、ははははは」

 夜中にワイン瓶を抱えながら千鳥足で桟橋を歩く女。怪しさ満点である。

「ふ、ふふ……ふ……う……うえぇぇぇん」

 ――遂には泣き出す始末である。
 の肩の上に乗っていたバチュルが異変に気付いたようにチュウチュウと鳴き始める。の泣き声には特殊な波長でも含まれていたのだろうか、薄く発光させた体を妖しげに揺らしながらピンクとブルーのプルリルとブルンゲルがのいる桟橋の下に集まってくる。
 ああ、こんな気持ちじゃなければ幻想的な光景だと喜べたのだろうけど。もう、いっそのこと全てを任せてみようか……。
 は桟橋に腰を下ろし、足を伸ばして水を蹴る。昔見たプルリルとブルンゲルの生態説明だと、このポケモンは生き物を海底へ連れ込むとされていた。その時はこれなんてホラー? と思ったものだが、今のの精神状態ではそれすら一種の救いに思える。自暴自棄、ここに至れり。自分の思考を笑い飛ばす元気すらない。
 涙を乱暴に拭い、残り少ないワインを飲み干す。

「帰ろうか。ルルちゃん」

 涙を流したら幾分かすっきりした。先ほどの不穏な空気を察し微弱な電気を流していたバチュルの頭を指でぐりぐりと撫でてやる。微妙に足元のプルリルたちが触手を伸ばしてきて先ほどから足元を掠っているのが気が気ではなかったところだ。よいしょ、と立ち上がろうとして――何かが、水の中で動いたような気がした。

「え?」

 なに、なんだ。大型の水ポケモンでも、来たのか?
 プルリルたちが割れるように左右に散っていき、こちらまで真っ直ぐと伸びる道が出来た。
 なぜだ、なぜ真っ直ぐに私のところに続く道が出来る。
 嫌な予感がする。帰ろう、すぐ帰ろう。一人では大きすぎるダブルベッドを贅沢に使って幸せな夢を見るという予定が私にはあるのだ!

「とりゃおーーー!」
「ぎゃあああああああ!!!! ルルちゃんルルちゃんルルちゃあああああん!!!!!」

 ザバアァァアア!!! と大きな水音を立てて”何か”が水面から飛び上がり、その塊はを跨ぐ様にして降り立った。真上から大量の水滴が滴り落ちはパニックを起こしポケモンの入っていないモンスターボールに手を伸ばす。肝心の”ルルちゃん”もひっくり返ったに投げ出され少し離れた場所で”フラッシュ”を放っている。

「おう! おはんこんなところで何しとっと?」
「ひぃっ!? なっ、なっ、だっ、だれっ!?」
「おいは人呼んで海の男、シーマンや! やけんみんなにはシーちゃん言われちょる。気軽にシーちゃんて呼んでな」

 キランと輝く歯が見えた。夜にも関わらず。

「し……シーちゃ、ん……」

 今日一日の行動での中にある孤独が許容量を超えてしまったのか、それとも腕から零れ落ちた度数15%超えのワインのアルコールが急激に回り始めたのか。はその場で意識を失った。






「はっ……! なんだ、夢か」

 目が覚めるとそこはふかふかのベッドの上でした。見覚えが無い場所なのは今は旅行に来ているからであり、昨日は部屋の内装にまで目が行き届く状態ではなかったからだろう。変な夢を見た。夜中に海の中から現れた怪しい男に襲われる夢だったような気がするが、ちゃんとログハウスに戻りベッドの上で寝ていたということは夢に違いない。酔っぱらっていた所為か、着替えをせず化粧も落とさずに寝てしまったらしい。顔を洗おうと洗面所に向かおうと枕の横で寝ているバチュルを起こさないように起き上がろうとしたその時。

「おはようさん!! よく眠れたか?」
「っな――――ひぎゃあっ!?」

 あ! やせいの 水着男 が 現れた!
 寝ぼけた バチュル の こうげき! は 30 の ダメージ!

 勢いよく開け放たれた扉に驚いたは、同じく大きな音に驚いたバチュルの電撃を食らってしまい二重のダメージを受け体を弓なりに逸らせた。

「おはん大丈夫か?」
「こ、これが、大丈夫に見えんの!? というか誰! 何! どうやって鍵を!!?」
「おう! おいはシーマン、みんなにはシーちゃんって呼ばれとる! 昨日の夜おはん気を失てしもーたからな、様子を見に来た! 鍵は管理人に借りた!」
「はい!?」

 何を言っているんだこの陽気な水着男? シーちゃん? 昨日の夜? 気を失った? 鍵は管理人に借りた? あれは、あの夢は、……夢じゃなかった?

「はあ!? じゃあなんで私ベッドで寝てたの!?」
「おいが運んだ!」
「マジか!」

 確かにあの時ポケットの中にログハウスの鍵は入っていたけれども。あれ? でもじゃあこのサイドテーブルに置かれた鍵はなに。さっき鍵は管理人に借りたって……。

「勿論昨晩は管理人に連れ添ってもらった! おい一人じゃどのログハウスを借りとるかまでは分からんかったたい。流石においがこの部屋の鍵持っちょるわけにもいかんやろ、鍵閉める時は管理人に閉めてもらったよ」

 なるほど、確かに筋は通っている。じゃあ本当に単純にここに運んでくれただけなのか。何か不埒なマネをされてはいないか、という疑念は先ほどまであったが、警戒度は下げてもいいかもしれない。今ここに来たのも、心配してくれての事のようだし。
 は手早く乱れた服装だけを直し、シーマンと名乗った水着男に部屋に入る許可を出した。男は何やら勝手知ったる様子で冷蔵庫から水を取り出すとそれをへと渡すと、近すぎず遠すぎない、そんな絶妙な距離でへと話しかけてくる。

「気分はどうじゃ? どっか具合悪いとかはないか?」
「……大丈夫みたい」
「いやー悪い事したったい! 海泳ぐんはおいの日課でな、いつも海から上がる場所にあの時間に人がいるとは思っとらんかった」
「そうなの……。貴方、地元の人?」
「そうやよ!」

 なんて一々爽やかな男なのだろうか。軽く二日酔いのにこの笑顔は眩しすぎる。

「そういうおはんは旅行者たい?」
「そう。バカンスで、4日ほど」
「ん? バカンスにしては短いんやな」
「諸事情がありまして」
「そうか……」

 自虐的に笑ったから何かを感じ取ったのか、それ以上シーマンがそのことに触れる事はなかった。傷口を抉られたくないにとってはうれしい事だ。本当ならば恋人と少なくても二週間はここで過ごすつもりだったが、その予定がなくなった今一人で二週間は長すぎる。だが折角予約を入れていたのに行かないのも勿体ない。他に捕まる友人もいなく(皆一様にバカンス、バカンス、恋人の家にご招待、サービス業でバカンスなにそれ美味しいの、他地方にバカンス……)、バチュルと思い出づくりのために4日と期限を決めて来ていた。キャンセル料を差し引いてもだらだらと一人でここに居るよりは有益であるので、いっそのこと他の町も巡って一人旅行でもするか、とも考えていた。が。

「ねえ、地元の人ならこの辺り案内してよ。私セイガイハに来るの初めてなの。一人でいても浜辺くらいまでしか行かないだろうし、地元の人なら面白いところ知ってるでしょ?」

 これは出会いだ。チャンスだ。一人寂しく酒を煽っていた憐れな女にも幸運を、と願いを叶えてくれるというポケモンが与えてくれた奇跡なのだ。これを掴まない手があるか? いやない!

「ええよ! 昨日驚かせてしまったお詫びたい!」

 ヨッシャ!






 シーマンとの行動の1日目は22番道路にジャイアントホールに続く洞窟の中の探検。2日目にはサザナミタウンへ続く21番水道をホエルオーの背中に乗ってなみのり、サザナミ湾の海底遺跡の入口の探索。今まで体験した事のないくらいの濃い2日間であった。過去に旅をしていたことがあるが、その時ですらここまで詰め込んだ体験はしたことがない。あわよくばこのバカンスの間だけでもいいから甘い関係に……! と意気込んでいたことすら忘れるくらいに満ちていて、今ではセイガイハに初めに着いた時の気持ちは無くなっていた。
 サザナミ湾からセイガイハシティへと帰る時には既に星が見えていた。ゆらゆらと揺れながら波の音を聞く。ホエルオーの背中は思っていたよりもすべすべで、じんわりと温かい。星を見ながらのなみのりも格別ったい、という台詞に押されて2人でホエルオーの背中に寝転がり、ゆっくりと話をする。

「そうか、は元旅トレーナーか」
「うん、もう何年も前にやめちゃったけど」
「今は何を?」
「今はヒウンシティで旅行会社のOLやってる。このバカンスも自分の会社のプランに乗っかって来てるの」

 本当は2人用のプランであったため、部屋も料理も2人分の料金を支払わなければならないはずだったが、なんとか融通をきかせてもらい料理だけは1人分の料金に設定し直してくれたのだ。

「というか、シーちゃんすっごいバトル強いね。私びっくりしちゃった」
「おいは海の仕事をしとる。ここら辺は野生のポケモンも手ごわいたい、ある程度は鍛えとらんとな」
「折角の休暇を2日も潰しちゃってごめんなさい。私楽しくって、貴方のそういう所にまで気が回っていなかった」
「全然構わんよ! おいもこんな楽しかったんは久々ったい」

 そうは言ってくれたが、何度かはシーマンに仕事の用事と思しきライブキャスターが何度かかかってきているのを見ている。今が休暇中だとは最初に確認を取っていたが、休暇中にまで電話がかかってくるのならば中々大変な仕事に就いているのだろう。だが、更に言い募ろうとするの鼻をシーマンにぎゅう、と摘ままれ、が言おうとした言葉は笑いの中に消えて行った。

「わっ、ほら見てシーちゃん、2日間でこんなに焼けた。シーちゃんほどじゃないけど」
「おお、最初と比べたら見事に焼けたなあ」

 日焼け止めは塗っていたけれど、塗り直しする暇などなかったのでこの日差しの中では無力だなベールだったようだ。シーマンはが上にあげていた腕の横に自分の腕を伸ばして見比べるように視線を動かすと、満足したのかそのまま自然な動きでの手首を掴み重力に従い手を下した。

「(…………)」

 私、なぜ今手を握られている?
 だが何気ない会話はまだまだ続く。先ほどとは何も変わっていないかのように何一つ様子が変わらずに話し続けるシーマンに相槌を打ちつつもの心臓は徐々にビートを上げていく。熱い、熱い、もう日は沈んでしまったのにどんどん熱くなっていく。喉が渇いてきた。水が飲みたい。
 まだ着かない? セイガイハ遠くない? もうこれなんだろう。握り返していいの? なんの前兆も無く握られたけどシーちゃん握ってるって自覚ある?
 昨日と今日とで何度も体に接触する機会はあったし、水着を見られても目の前の冒険に夢中でシーマンを異性として意識することは少なかったのに。今、そんな事をされてしまったら。

「……シーちゃん!」
「ん?」

 声が上ずってしまった。超恥ずかしい。でも、今日でバカンスも3日目。明日の昼過ぎにはセイガイハから発つ予定だ。ならばその前に。一晩だけのアバンチュールでいいから。最後に貴方と過ごす思い出を、ください。

「ブオオオオオオオオオオオオン!!!!」
「きゃあああ!!!?」
!!?」

 願いを叶えてくれるポケモンさん。
 ――上げてから落とすって、酷いと思います。






「―――………………」

 …………

「………………、…………!」

 …………だれか、が、呼んでる……?
 ……からだ…………おもい…………
 ……何……痛い…………

 上から下へ落ちるイメージと共に、背中に柔らかい感触がした。手や頭の下でざりざりとした感触。
 誰かが何かを呼びかけている。誰に呼びかけているの? 何を呼びかけているの?

! 聞こえるか? しっかりせい!」

 ………………シーちゃん?
 重い目蓋を、力を振り絞ってほんの少しだけ開ける。暗くて、よく見えない。でも目の前に焦っているシーちゃんが見える。こんなに慌てているシーちゃん、初めて見た。何がどうなって――――………………ホエルオー……。そうか、私……ホエルオーの背中から、海に落ちたのか。私はもう大丈夫だって、伝えないと……だって、こんなにシーちゃん、心配してる……。

 そうは思えど体が動かない。まだ動きにくい、でも声だけでも。ああ、でも呼吸が上手くできない――そう思ったところで、の頭が顎が上がるように上を向かされ額を固定された。

「(こ……これはまさか、人工呼吸!?)」

 そう思った途端に意識が覚醒した。先ほどよりも開く瞳、楽になった胸、だが鼻を摘ままれている所為で呼吸は上手くできない。口ですれば良いのだろうが、人工呼吸と言えとも、これが正式な救助活動だとしても、体がシーマンと重なることを求めている。
 しかし、どうする!? もう完全に目は覚めた、でも勿体ないから起きていないふりをする!? でもシーマンは救助行動としてこうしているのに、心配かけたままでいるのは人としてどうなんだ!?
 結局どうすればいいのか決める事は出来ず、近づいてくるシーマンの存在には思い切り目を瞑った。

「………………?」

 が、期待した感触はいつまで経っても訪れない。恐る恐る薄目を開けると、シーマンがの鼻から手を離し、そのままの額へデコピンを食らわせた。

「だっ!」

 思い切り反射で叫び声を上げて両手で額を覆ってから、しまった、と思うと同時に大きく息を吐き出す音が聞こえた。

「〜〜〜っごめんなさ」
「よかった……!」

 呆れられた! と慌てては起き上がり謝罪の言葉を口にしようとするが、それはシーマンがを強く抱きしめた事によりキャンセルされた。
 苦しい。先ほどよりよっぽど苦しい。でも、すごく温かい。そこでは初めて自分の体が冷え切っていることに気付いた。

、おはん本当にさっきまで息しとらんかった。心臓が止まるかと思ったったい」
「ごめ……」
「いや、おいがいながら落ちるん止められんかったんが悪い」
「シーちゃん」

 震えている。シーちゃんが。本当に心配をしてくれていたんだ。罪悪感が募っていく。

「私ならもう大丈夫……ね、ほら、すっごい元気! だからあんまり自分を責めないでよ。バランス崩した私が悪いんだし」
……」

 ここでようやく抱きしめる力が緩められた。そして今更ながらここがどこかを確認する。セイガイハの光が少し遠くに見える、まだ海の中の、小さな砂浜のようだ。ホエルオーの背中から落ちたを助けてここに連れてきたのだろう。

「あの時何が起きたの? 私よく分かってないんだけど……」
「野生のポケモンがバトルを仕掛けてきたったい。そんでホエルオーが吃驚してな……いつもやったらおいも直前で気付くんやけど、ちょっち浮かれとったら気付けんかった」

 ……浮かれて、いた。の耳はそんな言葉をキャッチした。他にも色々と言っていた気がするが、衝撃的すぎて吹き飛んだ。

「なあ……」
「はいぃ!?」
「さっき、どげんして目瞑ったと?」

 え!? それを今聞く!?

「えっえっえっ、あの、いや別に意味があったわけじゃなくて、た、単純に状況がよく分かってなくって、」
「そうか」

 抱きしめるよりは遠く、普通の会話をするには近すぎる。そのくらいの距離を保ったままシーマンに問われるが、その真意を計るにはシーマンの表情は辺りが暗い所為もあってよく読めない。あ、離れていっちゃう――そう思った時にははシーマンの腕を掴んでいた。何故自分でもそんな事をしたのか分からない。ただ、シーマンが海に戻ってしまうような……そんな変な気がしたのだ。

「キスを、してほしいと思ったの」

 そして口は信じられない事を口走る。

 え? うそ。なんでそれ言っちゃったの、私。
 目の前ではいつもより少し目を大きく開いてこちらを見ているシーマン。
 待って待って、これ拒否られた時のこと全然考えてなかったのに。私気まずいまま2人でホエルオーに乗って帰るの嫌だよ? そうするくらいなら泳いで帰るよ?

「意識が……」
「っえ!?」
の意識がな、あるって分かって……安心した後にな……」
「はい……」
「もしかしてキスしたかったから寝とる振りしとるんかと、思ってしまってな……」

 はい、大正解です。

「おはんが大変な時に自分に都合の良いこと考えた自分が嫌じゃった……」

 ……シーマンの顔が赤い。この暗さでも分かるくらいに赤くなっている。視線が、合う。
 どちらからでもなく距離が近くなり、唇が触れ合った。最初は触れたか触れなかったかが分からないくらいに。2度目はお互いが本当に存在をしているか輪郭をを確かめるかのように。3度目は――3度目からはもう何もかもが分からなくなった。気付くと背中は砂にまみれ、ざらつく腕でお互いを掻き回す。息継ぎの合間すら惜しんで何度も求めた。官能に全身を舐められているかのような気分に鳥肌が立つ。海の塩の所為だけではなく、体がしっとりと濡れていく。聞こえるのは波の音だけ。まるで海の底に沈んだように。

「……ホント、おいは――失格じゃな」
「え……?」

 もう2度と離れないというほどに癒着していた体が、突然乱暴に離れていった。まだ体に熱が残っているのに、何一つ変わっていないはずなのに、先ほどまでの体の奥まで焦がし尽す熱がシーマンの中から消えつつあるのが分かってしまった。己の中の熱が宙ぶらりんになった状態のまま、シーマンはを起こして砂を払い落す。その手には先ほどまでの欲望は微塵もなく、ただただ義務的に動くのみである。その温度差にの頭が急速に冷えていく。

「わたし、何か……」
は悪くない。全部おいが悪いんよ。送っていく」

 の服装の乱れを直したシーマンは口笛を吹いたと思うとすぐにホエルオーが海の中から顔を出した。乗るように促され、はそれに従い座る。会話は無い。そうしている間にセイガイハシティに到着し、ログハウスへと送られる。

「今夜はゆっくり休みんしゃい。無理したらいかんよ」

 まるでここが生涯の寝床だと決めていた沈没船が突然サルベージされ体を軋ませながら地上へと引き上げられたかのような、そんな気分だった。






 結局何もなかった。
 良いところまで行ったと思ったのに。

「……寝れなかった。あぁもう! ルルちゃんどう? 酷い顔じゃない!?」
「ヂュッ」
「それどっち!?」
「ヂュ〜」
「あああああーーん!」

 が体を極限まで捩じろうが奇声を発しようが朝は来る。外からは飛行ポケモンの鳴き声、水ポケモンが海面を跳ねる音、朝早くからポケモンバトルをする音が聞こえてくる。
 今日の夕方のフェリーではセイガイハを離れる予定だ。何時までも気を落としていても仕方がない。望みの結果にはならなかったが、シーマンと過ごした探検の時間は鮮やかな思い出としての脳内に残っている。

「楽しかったなー……いつか脱サラしてバックパッカーになろうかなー……」

 着替えながらも頭の中ではあの鮮やかな時間がリフレインしている。トレーナーとして頂点を狙えるほど強かったわけでもなく、特にトレーナーとしての夢も無かったのでヒウンでOLとして落ち着いたが、またポケモンと一緒に旅をするのも楽しいのかもしれない。夢は見るだけタダだよねー、とベッドの上のバチュルを拾い上げて肩に乗せ、夕方まで何をしようか考える。
 セイガイハの目ぼしい場所はシーマンと一緒に回ったし、お土産屋さんでも見てくる? そういえばセイガイハにはポケモンジムがあったはずだから外観だけでも見る? それとも……。

「ヂュッ、チュ」
「……そうだね。うん! 決めた! もう一回シーちゃんに会おう!!」

 トレーナーがどこか暗い顔をしている時、それをトレーナー自身が気付いていない時。バチュルはいつも微弱な電気を流して何かをに訴えかけてくる。懸命に違う事を考えようとしていたが、の本心はバチュルにはお見通しだったようだ。
 昨日のシーマンの様子はおかしかった。自分が何か変な事をしてしまったのかとも考えたが、あそこまでしてシーマンが止めた理由が思いつかない。もしかしたらの体を気遣ったのかもしれないが、あの様子はそれだけが理由だったとは思えないのだ。折角出会えたのだ。せめて連絡先だけでも知りたい。

「よっし! じゃあ朝ごはん食べてから行動!」






「(み、見つからない!)」

 は打ちひしがれていた。甘かった。の考えはあまいみつよりも甘かった。
 最初にシーマンと出会った場所、地元の人間が行きそうな場所、地元の人間への聞きこみ……それを経てなお、シーマンを見つけることは出来なかった。確かに、はシーマンの行動範囲を知らない。いや、知らないのはそれだけではない。どのあたりに住んでいるのかも、何の仕事をしているのかも、は知らないのだ。あれだけ一緒の時間を過ごしたのに、シーマンの事で知っていることは驚くほどに少ない。

「そんなものだったのか……」

 はー、と大きな息を吐いては砂浜に座って砂に「S」の字を描いていく。
 偶然再会を果たし、情熱的な抱擁、あわよくば昨日の続き――と、そこまで都合の良い事は考えていなかったが、連絡先の交換くらいは出来るものだと思っていた。だがよく考えたら知っているのはお互いの名前と手持ちのポケモン数匹。あちらはの借りているログハウスを知っているが、はシーマンの居場所は知らない。ということは、待ち合わせの約束をしていない限りあちらがを訪ねないことには出会う可能性は低いのだ。

「ルルちゃーん……ルルちゃん……あれ? ルルちゃん?」

 先ほどまで横でクラブとバトルをしていたような気がするが、その場所に目を向けるもバトル跡があるだけで二匹の姿は無い。勝手に遠くまで行くような子ではないはずだが――ま、まさか飛行ポケモンにさらわれた!? それとも波に飲まれて海の中に!?
 慌てて立ち上がり辺りを見渡すと、少し遠くの岩場の上に黄色が見えてそこへ駆け寄る。周りが洞窟のようになっているその場所に案の定バチュルがいて、よかったと肩に乗せようとした時、バチュルが何かを訴えかけるようにチュウチュウと鳴いて向こう側を指し示した。

「なに? ――って」

 は――あァッ!?
 海岸からは死角になって見えない洞窟の奥にいたのはの探し人――などでは無く、もしかしたらセイガイハに来た当時は一番会いたく、今になっては一番会いたくない相手……直前になって仕事が入ったとかでセイガイハへのバカンスをドタキャンし、それが初めてならばまだしも数度目の事であったのでと大喧嘩。そのまま喧嘩別れをしたの元恋人、その人であった。

「な――な、な、なんでアイツがここにいんの!? 仕事は!?」

 は急いであちらからは見えないように岩場の影に隠れる。
 サングラスをしてパーカーを深く被ってはいるが見間違えるはずなどない。詳しくはも知らないのだが、パソコンのシステム開発の仕事というのはリゾート地のビーチででも出来るものなのか? 客の要望が唐突に変更されたから何日も缶詰でシステム調整をしなくてはならなくなったという理由でとのバカンスをふいにしたのではなかったのか? なのに何故、キャンセルしたはずのセイガイハに来ているのだ、あの男。
 ……もしかしたら、追いかけてきてくれた? 別れる直前に売り言葉に買い言葉でセイガイハ行き自体はキャンセルにしてやる、と叫んだものの、はやはり数か月前から予約してやっととれた有名リゾート地への旅行が惜しくなって一人でセイガイハに来てしまった。彼はそんなの性格を熟知していて、それで仕事が早く終わったからに会いに来てヨリを戻そうと言いに来てくれたのではないのか?

「(けど、そんな今更……)」

 の心は複雑な気持ちでいっぱいだ。何度も旅行をドタキャンされて、今回は絶対に一緒に行けるからと仲直りの意味も込めて約束していたセイガイハバカンスすらキャンセルされて。別れることになって哀しかったが、清々ともしたのだ。大切にされていない、振り回されている、と薄々自分は思っていたのかもしれない。そんな時に出会ったシーマンに、は癒されたのだ。今まであまり縁のなかったタイプの性格だったことや、日常から離れたリゾート地での出会い、という状況も含めて、はシーマンに惹かれた。

「……あれ?」

 彼の元へ行こうかそのまま無視してログハウスに帰ろうか迷っていたところで、の目には彼の元へ近づく人影が映った。
 これでその相手が女であったならばは怒り狂って詰め寄っても許される場面だったかもしれないが、なんだか見た事のあるような人物であったのでは様子を伺うだけに済ませた。

「(あいつの友達……だっけ?)」

 友人連れでに会いに来たのか? それとも、とは関係なくセイガイハへ? ……わけが分からなくなってきた。
 とりあえず声をかければ全部分かるか、と立ち上がり彼の元へと近付こうとしたところで、は乱暴に彼からは見えない所へ引きずり込まれた。

「!? っんぅ!?」

 口が塞がれて声が出せない。体に巻き付く何かで身動きが取れない。野生のポケモンの縄張りにでも入ってしまい攻撃を!? と恐慌状態に陥りかけたの耳に聞こえたのは、懐かしいような声だった。


「!!」
「すまんな。少しだけ大人しくしとってくれるか?」

 首を捻ってなんとか後ろを見ると、そこにはが今日ずっと探していた男がいた。それを認識するとの体からは力が抜け、こくりと頷くと全てを任せるようにシーマンに体を預けた。それが分かったのかシーマンは拘束する力を緩めてくれたが、それでも緩めるだけで解いてはくれなかった。
 なんだ? 何が起こっている? 後ろにはずっと会いたかった男、少し離れた場所にはもう会いたくないと思っていた男。ずっと会いたかった男には何故か身動きを封じられ、どうも会いたくない男の様子を伺っているようにも見える。この拘束にあの時の夜の砂浜のような熱など微塵も無く、単純に、ただ淡々と何かに警戒している様子が伝わってきてなんだか怖くなる。
 何かが振動したと思ったら、シーマンはライブキャスターを付けて小声で誰かと会話を始めた。何の話をしているのかよくわからないが、顔の位置が近い所為かシーマンの耳にはめられたイヤホンからの音も微かにだが聞こえてくる。

『――……きます――…………願い……す、シズイさん』

 通信が切れた。内容はよく分からなかったが、誰かがこちらにやってくる、という感じのものだったことだけは分かった。
 波の音とポケモンの鳴き声、少し遠くではビーチではしゃぐ人の声。それが聞こえるのに、やけに静かに感じる。息が苦しくなる。自分の心臓の音が聞こえそうだ。が緊張しているのが伝わったのか、後ろの男がを宥めるように「大丈夫か?」と声をかけてきた。それにすらはびくりと体を震わせてしまう。きっと彼の手を掴んでいるの手が冷たくなっていることにも気付いているのだろう。

「(この人は、だれなの?)」

 違う名前で呼ばれていた。自分に名乗ったシーマンという名は、本当にある名前なのか?
 この状況はなんだ? 何故自分は拘束をされている。
 シーちゃん、貴方、何をするつもりなの?
 彼に、いや彼らに何かをするつもりなのだろうか。どうすればいい。恐い。
 ただ分かることは一つだけ。今、に偽名を名乗っていた男が、の良く知る人間に敵意を向けている。
 ならば――!

「っ! な、――」
「ぷはっ! ナイス、ルルちゃん!」

 岩場の少し高いところに移動していたバチュルがを拘束する男の目の前で強烈な”フラッシュ”を放ち、それに怯み拘束が緩んだ隙には男から距離を取った。薄暗い岩場にいた所為で突然の光にまだ目が回復していないのか、『シーマン』から伸ばされた手はを捕まえることが出来ずに空を切る。目線だけでの意図を汲み取り助け出してくれたバチュルを肩に乗せ、は後ろから聞こえてくる静止の声を無視して急いで元恋人のいる場所へと駆け寄った。

「――っ!? お前なんでここに……」
「その話は後! っつーかこっちの台詞!」

 もう先ほどいた友人の姿は無く、彼一人だけの手を取って『シーマン』から距離を取る。
 簡単には一目に付きそうにない岩場の影に身を隠してようやく息がつけた気がした。

「はあっ、ねえ何か移動手段ないの?」
「”なみのり”と”テレポート”出来るポケモン持ってるヤツいるんだけど、今はいないんだ。それよりも、なんでここに……」
「だからこっちの台詞なんだって! なんでここにアンタがいるの? 仕事って言ってなかった?」
「これも仕事なんだよ……つーかなんで隠れてんだ、オレら」
「なに、副業でも持ってたワケ……? まあいいや、なんか変な人がアンタのこと見ててさ」
「変なヤツ?」
「んー……なんか偽名使ってて……」
「…………」
「聞いてる? だからなんとか街の方まで戻って警察に――」

「その男から離れるんじゃ、

「「!!」」

 真上から声が聞こえたと思うと、上の岩場から『シーマン』が目の前に降りてきた。思わずは元恋人を守るように前に出て『シーマン』を真正面からにらみつける。

「それはできない相談ね、『シーちゃん』」
、この男……」
「さっき言ってた人だって!」

 未だに状況が理解出来ていないのか、落ち着いているような元恋人に少しだけ苛立ちを感じて大声を出してしまう。流石は地元民と言うべきだろうか、こんなに簡単に見つかってしまうとは思っていなかった。だが、がここで時間を稼げば元恋人が街まで戻って人を呼ぶ事が出来るだろう。『シーマン』の手持ちのポケモンは水タイプがほとんどだったはずだ。そこまでレベルが高いわけではないが、バチュルも強力な電気タイプの技を覚えている。足止めくらいは、出来る、は……ず?

「うぇっ!? え、な、何してんのアンタ!?」

 変にバランスを崩したと思ったら、後ろから元恋人に抱き付かれていた。今そういう状況じゃないって分かってる!? とこの男にはバトルの経験は果たして無かったのだろうかと疑問に思った時、何か鋭いものがの首元に添えられた。

、本当に助かった。お陰で仲間に連絡する時間が出来た」
「……おはん」
「おっと、動かないでくれよジムリーダーさん。動くとこの女の血がアンタの大好きな海を汚すぜ?」

 首に宛てられたものを辿っていくと、元恋人の肩に乗るニューラに視線が行き着いた。
 ニューラを持っているなんて、私知らなかった……。
 そのニューラの鋭い鉤爪がに向かっていて、まるで『シーマン』に対する人質かのように見えるこの状況は、一体何を現すのだろうか。

「…………ジムリーダー?」
、お前この男と知り合いなのか? なのに正体を知らなかった? 本当の名前も教えてもらっていない?」
「……」

 全部その通りだ。ジムリーダー、ジムリーダー……? 目の前でこちらを殺しそうな目で睨んでいる男が、セイガイハのジムリーダー?

「可哀想に、利用されてたんだな。都合よく使われてたんだ」
「その口を閉じろ。、よく聞くんじゃ。その男は有名な窃盗グループの首謀者ったい」
「は――?」

 窃盗グループの、首謀者?

「何……言ってるの。意味わかんない……ね、ねえ、違うよね? 変だって、そんなの……」
、ちゃんと考えるんじゃ。今の状況を、その意味を」
「今の、状況……」

 『シーマン』はこのセイガイハシティのジムリーダーで、『元恋人』は窃盗グループの首謀者だと、二人は言う。そして私はその”窃盗グループの首謀者”である『元恋人』に、首元にポケモンの鋭い爪を突きつけられて、”セイガイハシティのジムリーダー”と向き合っている。――恐らくは正しく人質として。
 な、何も知らなかったのは、私だけ? 元恋人は”利用されていた”、”都合よく使われていた”と言った。きっと、それはあるのだろう。『シーマン』は私に本当の身分も名前も隠して私に近付いて、動向を探っていたんだ。元恋人の仲間だと疑って。
 そして私は、それを知らずに勘違いで元恋人を助けて……それが今の――この結果。

「泣くな。黙ってたのはお前を危険に遭わせたくなかったからだ。巻き込みたくなかった。分かってくれるだろ?」
「…………」
「でもこうなった以上、オレと一緒に来いよ。ここで二人でこの男を倒せば、誰もオレたちの事を知ってるヤツなんていなくなるんだ。すぐに仲間もやってくるから、ここから違うところに行ってまた一緒に楽しく暮らそうぜ? いつも旅行をドタキャンして悪かったな、その埋め合わせをするからさ。お前オレに甘えるの好きだったもんな、いっぱい甘やかしてやるよ」
「…………」
「まだオレの事を愛してるだろ? だってオレのこと助けてくれようとしたもんな。オレだって愛してるよ。だから――」

 だから、またオレとやり直してくれるだろう?
 と、言っているのか、この男は。
 オレの為に格安のプランを組んでくれるだろ? オレの為にオレの都合の良いように証言してくれるだろう? オレの為に、バカな女のままでいてくれるだろう――?

「そうね、私、愛している」
「……」

 俯いたまま答える。シーちゃん……もとい、シズイは無言のまま私を見る。
 あーあ。こっちにも騙されちゃった。最初から怪しさ満点の名前を名乗るし? でもそれを上回る爽やかさで有耶無耶にしちゃうし? 天真爛漫だと思わせておいて実は思慮深いって部分を見せてきてギャップを狙ってくるし? 優しくしてくれたのも、――キス、したのも――全部演技だったんだし?

……」

 彼を振り返り目を見つめる。彼は大きく手を広げて歓迎するように私を抱きしめようとする。

「愛してる……いや、愛してた。男に全部をつぎ込んでそれに浸ってる馬鹿な自分を愛してたの!」

 こちらへ伸ばされる手を振り払って油断しまくりなボディに一発、今までの全ての思い出を込めて渾身の力で拳を叩きこんでやった。
 ああ、ああそうだ。認めよう。私は馬鹿だった。どうしようもない馬鹿だった。利用されている事にも気付かずに嘘で固めた言葉を信じて、旅行が好きな彼の為になるならと色々な場所へ格安で行ける企画を提出して、それが通るように会議でプレゼンテーションして、でもそれは犯罪の手助けになっていた? 
 ホンット、バッカじゃないの!? 恋に恋する乙女でも気取ってたつもり!? 相手に全てを捧げるのが愛情の深さだって、相手の全てを肯定するのが愛情だって本気で信じて盲目になって、とんでもない事の片棒を担いでいた過去の自分もぶん殴りたい!!!!
 トレーナーを殴られたのを見たニューラがに飛びかかるが、の服の中に潜り込んでいたバチュルの”シグナルビーム”を真正面から受けて岩肌に叩きつけられる。

「今までぶりっこして隠してたけど、私元バトルガールだから! アロマなお姉さんだった時代なんてないから! はっはん騙されたな!!!」

 まあそういう事である。元バトルガールで身もポケモンも鍛えに鍛えまくっていた青春時代。だからこそ異性に免疫がなく、バカな男に引っかかってもそれがおかしいことだと思わなかったのだ。ちなみに私と旅をしたかつての仲間たちは今は実家でカラテオウの父親の道場を楽しく手伝っている。

「こ……っの、!!」
「っ」

 しかしそれも過去の栄光。何年もデスクワークでなまった体は咄嗟には動かない。だが衰えていない動体視力だけはきちんと、こちらへ向かってくる拳を捉えて――

「っぶふぉ!?」
「――仲間に誘った女にも容赦なく手をあげるとは、まったく男の風上にもおけんヤツったいね。ま、これでが仲間かもしれんっちゅう可能性も完全に消えた」

 だがそれも凄まじい勢いで飛んできた大量の水に弾き飛ばされ、男はそのまま砂浜にまで飛ばされた。何が起きたか分からないまま立っていたの前にのしっ、という効果音を出してアバゴーラが立ち塞がった。一瞬すぎて見えなかったが、水の塊だと思ったのはアバゴーラの”アクアジェット”だったらしい。

「がんばったな、恰好よかったたい。後はおいに任せんしゃい」

 頭をポン、と撫でられ初めて会った時のような――いいや、あれよりももっと素敵な笑顔を向けられ、は顔をくしゃりとさせてうなずいた。

「っごほ、く、くそ! 何なんだお前ら! こっちには仲間がいるんだぞ!」

 その声と同時にいつからそこにいたのか、岩場の影から数人の男が姿を現した。
 友人として紹介されていた見知った顔にの体が強張る。分かってはいたつもりだったが、いざ目の前で本当に”そういう振る舞い”をされるまでどこかで認めていなかったのだろう。

「ポケモンは全部あずからせてもらったぜぇ、ジムリーダーさん」

 そう言う男の手にはモンスターボールが入った網が手に握られている。も見た事があるが、シズイは自分のポケモンをああして持ち歩いていた。

「ポケモンがいなけりゃジムリーダーもただの人間だろ! そのアバゴーラ一匹でどこまで持つかな!」
「……! わ、私も戦――」

 何匹ものポケモンが男たちのボールから出てきて、は自分も前で出ようとするがそれはシズイの手で制止させられた。シズイの顔を見ると頼もしく笑っていて、状況も忘れては見惚れかけた。

「奇遇やね。こっちにも仲間はいるったい」

 大きな音を立てて巨大な何かが海から飛び上がった。それも一匹じゃない。何匹も、何匹も。まるでここから逃がさないと言わんばかりにこの浜辺を囲んでしまった。

「ほ、ホエルオー、だと!?」
「なんでだよ! ボールは全部この網の中に……」
「か、カラだと!? こ、これも、これも! ここに入ってるヤツ全部カラじゃねぇか!!」
「っ……!? 他のポケモンも、水の中にいるぞ!!?」

 辺りを見回すと海の中から、浜の中から、ホエルオーの背に乗って、そこら中から鋭い視線が向けられている。

「――ここはおいたちの海。それを侵すものは何者も許しはしない」

 そう、男たちは忘れていた。この場所が海に囲まれた場所だという事を。目の前の男が、水タイプポケモンのエキスパートだという事を。そしてこのセイガイハには、シズイを愛するものが数多く存在する事を――

「この海がおはんらを受け入れる事は無いよ。ほな、はじめよーかい!」






「ま、そんなわけで。おいがセイガイハのジムリーダー、シズイったい」
「おいは海に関する色んな資格を持っちょるけん、自衛団に色々頼まれとるんよ。んで最近、物騒な話が流れてきてな。海は全ての川を受け入れる、けどそこにあんまよくないもん混ざとったら海のポケモン、海を愛する人、みんな笑顔じゃなくなるじゃろ? やけん、しばらくおいが泳ぐんと同時にパトロールしとったんよ」
「騙すカタチになったんは本意じゃなかっとよ。でも警察や自衛団の間に出回っとった写真にの姿がよく写っとったけん、警戒せんわけにはいかんかった」
「でも話聞いたりしとると吃驚するくらい普通のおなごでこりゃあ可笑しい思うてな」
「色々と調べてもらっとたりもした。その報告で何回かライブキャスター鳴っとったやろ、報告受けるたびにの情報は白になっていくし、最後らへんはもう素が出てしまっとったたい」
「危ない目に遭わせてしもうて本当にすまんかった。おいがもっと早くに言うべきじゃったろうな」

 だが今日がの帰る日だと聞いていたので、何も知らずにいる方がの為なのではないか、無理に巻き込ませると危険が伴うのではないか、という判断からそのままを帰らせそのままシズイと警察で窃盗グループをお縄にする予定であった、という話だ。
 それがが取り調べの間に聞いた話。そして、ここ暫くを振り回していた男たちの真相だ。

 あの後応援に来た警察や自衛団の人間に保護されたは、調書を取るという事で何時間も警察の中で過ごす羽目になった。直接窃盗に関わっていたわけではないが、窃盗グループのリーダーと近しい関係過ぎた事が長引いた原因だろう。それに知らなかったとはいえ間接的に彼らの手助けをしていた事にも間違いはない。もしかしたら自分も逮捕をされてしまうのでは、と内心ビクついていたが、思っていたよりは早く――それでもフェリーの時間には間に合わないくらいには――解放をされた。迎えに来てくれた自衛団の人の話では、なんでもジムリーダーが口を利いてくれたことが早く解放された理由の一つらしい。

 今日帰る予定であったので、ログハウスは既にチェックアウトをしている。そんなの為に自衛団の人は宿を用意してくれていた。

「あのログハウスよりは数段劣るけど、このコテージも中々人気なんですよ」
「なにしろセイガイハがリゾート地になる前からあるんだ、それまではずっとここでトレーナーを休めていた」
「疲れたでしょう? ゆっくり休みなさい。お腹がすいたら横に小さいお店があるからそこにいらっしゃい。ご馳走してあげるからね」

 自衛団の人、そしてその家族に色々と面倒を見てもらい、は何度もお礼を言ってから部屋の扉を閉めた。こちらが申し訳なく思うほど優しくしてもらったのは、事件に巻き込まれた被害者、という立場だけでは無いのだろう。きっとあの健康的に日に焼けたジムリーダーの存在があるからだ。

「……………………あーーーーー、つっかれた……!!!」

 張りつめていた糸が切れたようにはベッドへと倒れ込んだ。海の中に少しだけ入る形で作られているこのコテージの床は部分的にガラス張りになっていて、海の中の様子が見えるようになっているが今はそれを楽しむ余裕は無い。枕の横では今日たくさん働いてくれたバチュルがすよすよと眠っている。ありがとうね、と感謝の気持ちを込めながら指で優しく撫でてから、シャワーだけでも浴びよう、とは立ち上がった。
 塩のベタベタとした感触が肌から消えたのを感じて、は濡れたままパンツとタンクトップだけを身に着けてバルコニーへと足を運んだ。シャワーを浴びたらなんだか眠気がどこかへ行ってしまった。海からの風が気持ちがいい。もしかしたらシャワー浴びた意味がなかったかもしれないと全身で浴びる潮風に薄々勘付ながら、少し早いけれど日も暮れたし寝ようかな、と戻ろうとした時。
 ――背後から水音が聞こえた。

「とりゃおーーー!」
「きゃああああああああああ!?」

 なんだこのデジャヴ!? とは戦きながらも今度は心構えさえさせてくれなかった登場のタイミングに思い切り悲鳴を上げた。またしても押し倒される形になり強かに全身を木の板に打ち付け身もだえるを見下ろすのは、やはり全身水を滴らせた水着男であった。

「おお! どうもおいはおはんに引き寄せられるようじゃな!! 人がおらんとこ狙ったつもりじゃった!」
「人を灯台みたいに言わないでよ!!」

 思い切り突っ込みをしたら力が抜けてしまった。は腕で顔を隠してからそのまま力無く横たわる。真上から水が落ちてくる。

「……どいて、濡れちゃ――」

 ――一瞬、瞬きの間、少し冷たいものがの唇に触れた。
 腕をどかして目を開けるとどうしたって近いのに、少しだけ離れた場所にシズイがいた。……暗くて、そしてコテージも電気を消しているから、あまり表情は分からなかったけれども。シズイの後ろに見える星空が本当に綺麗だ。

「泣かんでくれ」
「泣いてない」
「でも鼻声じゃ」
「そういう宗教なんです」
。おいの名前、呼んでくれるか?」
「……――」

 なんという男だ。もしかしたらをずっと騙していたあの窃盗グループの元恋人よりも酷い男なのかもしれない。

「……苦しいの。ずっと、胸が苦しいの」

 名前を呼んでくれ、だなんて。そんな言葉。

「苦しい……息が出来ない。ねえ、……っん」

 もう、誰かに人工呼吸をしてもらわなければ死んでしまう。そう瞳で訴えれば、少しだけ激しく、でも優しくしようという努力が感じられる力加減でぶつかってきた。

「ん……、あっ、……まだ苦しい。まだ、まだ……」
「っ、……」
「んっ、ん、は……」

 与えるはずの人工呼吸が、奪うためのものになっている。何度も何度も、口付けて、吸って、舐めて、また奪い合う。涙が頬に流れると、それすらも舐め取られる。全然治らない。苦しいままだ。

「っ、くるしい――あっ、……」
……!」

 でもこれは、この人にしか治せない病なのだ。

「は、あっ……! し……シズ、イ……」

 夢中でを貪っていた体が一瞬止まった。名を呼んだ。シズイ、とは口にした。
 考えて迷って悩んで、そしてがたどり着いた答え。自分で考えて、自分なりの言葉でそれを伝えた。
 シズイ、――名前を呼び合う。何一つ騙る事のない、生まれたままの言葉だった。それだけで十分だった。それだけで全てが伝わり合った。
 貴方となら、きっと海の底でだって呼吸は出来るだろう。

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